「生態人類学を学ぶ人のために」(世界思想社, 1995)より

 フィリピン・ミンドロ島のハヌノー族の植物分類

   ハヌノーは、植物について語るための植物部位の名称を少なくとも150以上
  もっており、822の基本的な名称語彙を用いて1625もの相異なる植物タイプを
  識別している。1625の植物タイプのうち、栽培あるいは保護されている植物が
  約500タイプ、残る1100タイプが野生のもの。また全体の9割以上である1524
  タイプの植物が利用されている。
                        (寺嶋秀明、p.91)

 アフリカ・エチオピア西南部のサバンナ帯に住むアリ族

   アリ族は、エンセーテというアフリカ原産のバナナの一種を主作物とする
  農耕を行っている。エンセーテの葉柄(偽茎)には多量のデンプンが蓄えら
  れている。この葉柄を地中に埋めて発酵させ、それを焼いたり粥にしたり、
  蒸したりして食べる。エンセーテには多くの品種が存在するが、ある村で
  徹底的に調べたところ、それぞれ固有名を持つ78種類もの品種がリストアップ
  されたという。それぞれの品種は、原理的には一つひとつ異なる特徴の組み
  合わせにもとづいて識別されており、個々の品種名と植物そのものとの対応は
  正確無比であったという。そして、一人の農民はふつう20以上の品種を知り、
  自分の畑に植えてある品種名とその位置について実に良く把握していたという
  のである。
   アリたちはできるだけ多数のエンセーテ品種を自分の畑に保持することに
  熱心であり、同時に野生エンセーテ集団の儀礼的保護区(カイドゥマ)を維持し、
  実生個体を保護するなど、社会学的ならびに生態学的な観点からみて、品種の
  多様化を保証できるような仕組みをつくっていたのである。明らかにエンセーテ
  の多様性は人為によるところが少なくない。エンセーテ品種を増やすことは、
  それだけで価値のあることなのである。つまり、アリたちにとって、エンセーテ
  は単なる作物でも、単なる自然でもなく、その多様性がそのまま文化的価値で
  あるような、一種の文化財なのであるということだ。
                        (寺嶋秀明、p.92-94)

 文化の源泉としての自然

  多彩な植物利用(ムブティ・ピグミー)
   彼らの伝統的な物質文化は、直径1.5m程度の小さな丸い小屋をはじめ、いすや
  マットなどの家具、狩猟や採集の道具、運搬具、樹皮布その他の衣装・装飾品など、
  いずれもきわめて簡素なものからなるが、それらのすべてを集めてもおそらく
  100点に満たないであろう。これらの物質文化のうち、素材の全部またはその一部に
  植物が用いられているものは8割以上におよんでいる。これに対して、素材が動物性
  のもの、金属または石や土などの鉱物が用いられているものは、各々14点および
  16点であり、植物に比べてずっと少ない(丹野 1984)。すなわち彼らの物質文化は、
  森の中にふんだんにある植物を駆使した文字通りの「森の文化」といってよい。
                        (市川光雄、p.158-159)

 二次林的環境の重要性

   ムブティ・ピグミーの植物利用の調査をしていたわれわれは、彼らが利用する
  食用植物のなかには、発芽や生長に十分な光があたることが必要な陽樹が多いこと
  に気がついた。たとえば、アントロカリョンやリキノデンドロンなどは生長すれば
  大木となるが、もともとは十分な光があたる環境でないと発芽しないといわれる。
  ランドルフィアなども攪乱地でよく生育する。ヤマノイモの類も大きな根茎をつける
  のにはやはり十分な光があたることが必要である。また森の中にロウソクノキの大木
  があるところは、かつての人間の居住跡だといわれている。つまりこれらの植物は、
  成熟した原生林のうす暗い環境で発芽・生長したものではなく、明るい二次林的な
  環境で育ったものに違いない(市川 1992)。
   現在では農耕民の集落は、森を東西および南北につらぬく道路沿いに集中している。
  しかし1930年代以降にこれらの道路が建設され、その維持と徴税のために植民地政府
  によって強制的に移住させられる以前には、農耕民の小集落が森のなかに広く分散
  していたのである。農耕民と緊密な交換関係を維持してきたムブティの分布も、それ
  に応じて分散していたと思われる(市川 1992)。
   一口に原生林といっても、そのなかには風雨や落雷に伴う自然倒木によって生じた
  ギャップがあちこちに存在する。それらのギャップでは、光を待ちかまえていた植物
  が一斉に芽生えて、生長の早い陽樹からなる二次林が形成される。そうした二次林が
  長い時間をかけてゆっくりと原生林に回復していくのである。したがって現実の森は、
  形成されたばかりのギャップから二次林を経て、成熟した原生林にいたるまでの、
  さまざまな更新段階にある植生のモザイクからなるのがふつうである。
   イトゥリの森にはこのような自然要因によるギャップに加えて、人為的な植生改変
  がかなり広範に認められる。狩猟採集民であるムブティが植生におよぼす影響はそれ
  ほど大きくはないが、それでも彼らが長期間使用したキャンプの跡や蜂蜜採集のため
  に木を切り倒した跡は、自然のギャップと同じような二次林的な植生に覆われる。
   しかし、それよりも植生に大きな影響をおよぼすのは農耕活動である。現在では
  農耕民の集落は、森を東西および南北につらぬく道路沿いに集中している。しかし
  1930年代以降にこれらの道路が建設され、その維持と徴税のために植民地政府によって
  強制的に移住させられる以前には、農耕民の小集落が森のなかに広く分散していたの
  である。農耕民と緊密な交換関係を維持してきたムブティの分布も、それに応じて
  分散したいたと思われる(市川 1992)。
   イトゥリの森には、このような以前の集落や畑の跡が古い二次林となってあちこちに
  残っている。そういうところの植生は、クワ科やトウダイグサ科、ニレ科などの樹種が
  多く、ジャケツイバラ亜科の喬木が卓越する原生林とは明確に区別できる。そしてこれ
  らの二次林性のパッチには、原生林の二倍の数の食用樹種が含まれているのである
  (Hart and Hart 1986)。さらに、農耕民の放棄した畑の跡は、野生動物にとっては
  食物の集中した格好の餌場となる。そうした畑や集落の跡に集まる動物をムブティが狩
  り、その肉を農耕民と交換する。このように考えれば、人間の生活環境としてのイトゥリ
  の森は、ムブティと農耕民、野生植物や動物の相互作用を通じて、かなり人間にとって
  すみやすい環境になってきたと考えられる。
   コンゴ盆地を上空から眺めると、見わたすかぎりの原生林がつづくようにみえる。
  しかし、西アフリカからコンゴ盆地の森林に移住してきたバントゥー系の焼畑農耕民は、
  1000年以上も前に、一部の湿地帯を除くこの森のほぼ全域に分布を広げていたのである
  (Vansina 1990)。もちろんその人口密度はきわめて低かったことであろう。しかし
  彼らがひんぱんな移動をくり返しながらこの森のいたるところに足跡を残すのに、1000年
  あれば十分だったであろう。植物学者のリチャーズ(Richards 1952)も、アフリカの森
  では、一件りっぱな原生林のようにみえてもじつは古い二次林であることが多いと述べ
  ている。注目すべきことは、そのような長い年月におよぶ居住の歴史にもかかわらず、
  大局的にはこの森が残されていることである。そして、そのような人為の影響が必ずしも
  人間の生活にとってマイナスとは限らないことである。
                        (市川光雄、p.161-162)

  意図的な植生管理  キャンプ地や小規模な農地の開墾は、自然に生じたギャップと
  同じように開放的な環境をつくりだし、そこに光を好むさまざまな有用植物が生育する。
  イトゥリの森における人為の影響は、そうした植物が生育しやすいような環境を結果的に
  つくっているだけで、いうならば自然の植生変化のサイクルにほんの少しばかりの手を
  加えただけのことである。しかし他の地域ではより積極的に植生をコントロールしている
  例もある。たとえば南米のアマゾンの氾濫源を利用するカボクロ・インディアンは、アサイ
  と称するヤシなどの商品産物の生育を助けるために、薪にしかならないような樹種を選択的
  に除去する。けっして畑のように、裸地化した土地に意図的に作物を植えるわけではないが、
  これだけの作業によってアサイの実の収穫は六割近くも増加するという。しかもこの作業
  によって植物全体のバイオマスや構成樹種の多様性は若干減少するものの、森のなかの有用
  樹種の割合は飛躍的に多くなる。さらに、下ばえが切られるので森のなかが歩きやすくなる
  という利点も生まれる。アンダーソン(Anderson 1990)は、このような植生の間接的管理を
  従生態的管理(tolerant management)とよんでいる。
   同じ南米のカイアポ・インディアンは、さらに積極的な植生管理をおこなう。カイアポは
  ブラジルの東部アマゾンのサバンナと森林のモザイク地帯にすむ焼畑農民である。彼らは
  その地域に産する森林資源を多様な方法で利用しているが、同時にまたそれらを育成して
  いるのである。とくにサバンナのなかに点在するアペテとよばれる「森の島」は、そのような
  森林育成の例として注目に値する。アペテの植物の85パーセントはじつはもともとそこに
  生えていたものではなく、カイアポによって植えられたものである。
   彼らはまず、既存のアペテの中で緑肥をつくり、それをサバンナ地域の窪地にもっていって、
  シロアリ塚からとったミネラルの多い土と混ぜて小さなマウンドをつくる。そこに食用、
  薬用、物質文化などのさまざまな用途に用いる植物や、狩猟動物の餌になる植物を植える。
  そのほかにこれらの植物をハキリアリから守るために、これと敵対するアズテカアリの巣も
  わざわざもちこんでいる。このようにしてつくったアペテは、十分成長すると5〜10ヘクタール
  ほどの面積になるが、そこには西ヨーロッパの広さほどの地域から集められた植物が集中して
  いる。こうしたアペテのほかに、とくに有用植物の集められた森が彼らの移動ルートに沿って
  点々と分布している。あるカイアポの村の周辺では、そのような移動ルートのネットワークは
  延べ500キロメートルにも達しており、そのルートに沿ってヤマノイモなどの作物とともに
  各種の野生果樹や薬用植物が植えられているという。カイアポはまた、蜂蜜採集などで木を
  切り倒した後に生じたギャップにも有用樹種を植えて意図的な植生の更新を行っている
  (Posey 1992)。
   同じような植生管理の例は、中米の森林地帯に栄えたマヤの農耕文化でもみられたという。
  マヤはミルバと称する森林の焼畑で80種類もの作物を栽培し、1平方キロメートルあたり
  100〜200人という高い人口密度を支えるための高い生産性を維持していた。焼畑のほかに
  マヤの農業で重要なものは、集落の周辺につくられたキッチン・ガーデンで、ここには
  各種の作物のほかに食料や飼料、燃料などに用いられるさまざまな野生の有用樹種が
  植えられていた。かつてマヤの遺跡があった周辺の古い森にはとくに野生の有用樹種が
  多いが、これらはもともとキッチン・ガーデンのなかに意図的に植えられたものだとも
  考えられている(Gomez-Pompa and Kaus 1990)。
   これらの例は、地域の生態学的な多様性が実は人間の活動によって創出され、維持されて
  いることを示すものといえよう。高大なアマゾンの森林のなかには、じつはこのように
  意図的な環境操作や非意図的な人為の作用によって生じた部分が少なくないのである。
  アマゾンの森は、じつは従来考えられていたように本当に原始そのままの森ばかりではなく、
  およそ12パーセント程度がなんらかの人為の作用によって生じた二次林だといわれている
  (Ballee 1989)。
                        (市川光雄、p.164-166)