飯尾宗祇(いいおそうぎ、室町末期の連歌師)の白河紀行
   応仁二年(1468)の初冬、宗祇が48歳のとき書かれたもので、筑波山から宇都宮、
  日光、大田原を通り、関所で有名な白河までの短い旅行の記録です。そのときの
  那須野ヶ原のようすを、次のように書きとめています。
  「那須野ヶ原に来ると、高い茅が道をふさいで生い茂っている。武士が案内して
  くれていなかったら、こんなおそろしい道では命を落としていたかもしれない。
  やがて大田原につく。尾花(ススキ)、浅茅(カヤ)もきのうの野と変わらず、
  ナラやクヌギが入り交じり、カシワの木も色づき、またいろいろのもみじが、
  常緑樹に交じってつづいている」
   宗祇が書きとめた那須の平野では、クヌギやナラ、カシワなどの交じった林が
  つらなり、間をぬって伸びる道には、カヤやススキがぼうぼうと生い茂っていた
  ことが想像されます。
  (中略)
   関東地方の農家は、もう鎌倉時代のころから、平地林を農業とうまく組み合わ
  せて、利用していたと思われます。
    (筒井迪夫、木と森の文化史、朝日新聞社、103-104、1985より)