Trees : 木や森に関すること


2012/06/20
「日本の植生図鑑〈T〉森林」中西哲・大場達之・武田義明・服部保、保育社1983
(28)
 現在では燃料として、石炭・石油・ガスなどが普及して、薪や炭を使うことはほとんどなくなった。しかし、30年ほど前は薪炭が燃料の中心であり、それらを山林からまかなっていたのである。
 薪炭は、家庭での炊飯や風呂用ばかりでなく、工業用としても多量に使用されていた。窯業や製塩、製鉄などが大量の消費先で、ちなみに、1tの鉄を生産するために約14tの炭を必要とし、さらにこの炭を得るために約4haの立木が用いられたといわれている。
 このように、多量の消費のために立木を伐採し、自然植生を破壊していった。その代償植生として、土地条件のよいところにはコナラ林が、また条件の悪いところにはアカマツ林が発達するようになった。
 また、人びとも、人家近くの里山を、土地の能力に合わせてコナラ林にしたり、アカマツ林にしたりして管理育成を行った。
 土壌が深い山麓斜面は、コナラ林として育成し、15年ないし20年の周期で皆伐し、薪炭の材料を得た。また、尾根すじはアカマツ林として育成し、アカマツそのものは木材に使用するため残し、下生えの低木類を約15年ほどの周期で伐採し、薪に利用したようである。


2011/06/30
「イノシシから田畑を守る」江口祐輔、農文協2003
(129-130)
 新田開発が盛んだった江戸時代前半は、動物たちを追うために、鉄砲が開墾に必要な農具として使用された。しかし、五代将軍綱吉の鉄砲改めによって強制的な追い払いが難しくなると、野生動物たちの逆襲が始まる。とりわけイノシシの被害は大きく、我々の祖先は「シシ垣」をつくってこれに対抗した。今もこの跡は各地に残っている。
 寛永2年、今から約250年前の八戸藩領内(今の八戸市周辺)で、イノシシのために1万5000石の被害が発生し、3000人以上も餓死した。いわゆるイノシシ飢饉である。
 これが起こった背景には、大消費地江戸の周辺農村で進む商品作物生産の余波があったといわれる。江戸近辺で雑穀栽培をしていた農家が養蚕など収益の上がる作目に転換するに伴い、基本食料であるダイズや雑穀の供給が細るようになっていた。この役割を担おうとしたのが、水田が少なく畑作が中心だった八戸周辺の農村である。問題はその生産様式。ここではそれをもっぱら焼畑で栽培したのである。
 焼畑は、2〜3作つくると休耕する。その間、畑は放置されるために藪化し、クズやワラビが進入する。これらの根はイノシシの好物。イノシシの餌場をあちこちにつくることになる。その結果、イノシシが増え、いったん例外が発生すると、餌を求めて作物を襲い、大きな被害を出すようになったというのである(東京農工大・神崎伸夫先生)。
 この状況は、現在の中山間地にもよく似ている。耕地の放棄が常態化しているなかで藪が増え、イノシシの餌場となり、作物を襲う隠れ場所となっている。
明治時代の大乱獲
 江戸時代までは、我々の祖先は特別な武器を持たず、凄絶な闘いを繰り返してきた。闘わざるを得なかった。時には深刻な被害が発生した。
 その記憶も、しかし明治時代になると忘れてしまう。野生動物の大乱獲が始まったからだ。
 ニホンオオカミが絶滅し、カモシカ、トキ、コウノトリ等まで絶滅寸前に追い込まれたこの明治期の狩猟圧によって、わが国の野生動物は激減し、イノシシの個体数も低く抑えられた。このため、我々の祖父の世代ぐらいまで、野生動物に田んぼや畑を襲われる経験を、ほとんど持たなくなる。動物とは別々に暮らせるように思ってきたのである。
1970年代以降に被害が拡大
山に人がどんどん入っていった戦後開拓期 − 例外的に鳥獣害が少なかった時期
 さらに、第2次大戦後、食料不足の解消を目的に大規模な農地開拓が行われたときも、現在のような鳥獣外問題は発生していない。従来、日本の農業の歴史では森を拓くたびに野生動物との攻防が繰り返されてきたが、このときだけは例外的に鳥獣害が大きな問題とならなかった。
 その理由は、明治以降、このときまでイノシシも少しずつ増えていたには違いないが、大乱獲の影響が強く、人間に影響を与えるまでには至らなかったことが一つ。もう一つは、この時期に狩猟者が急増したこともあるだろう。さらに、このとき非常に多くの人が山村地域に入っていったことも鳥獣害を抑えられた大きな要因と考えられている。
 戦後の農地開拓は、食料不足を解消するとともに、戦災者や引き揚げ者に就業の場を与えることが目的とされた。次から次へと人が山の中へ入っていき、その数は21万個にも及んだ。一日中、人の声が山にこだまするようになり、そこら中で鍬をふるう人の姿が目につくようになった。乱獲の後遺症で勢いを失っていたイノシシなど野生動物たちが、人間の生活領域に侵入できる力関係ではなかった。
 現在、野生動物によく食害されているミカンやクリ、イモなども、当時はごく普通に、特別の対策もなく栽培できたのである。
人の流れが変わった
 その後、人の流れが変わる。わが国に高度経済成長の時代がやってきた。農林業から工業やサービス業へ、就業の場は劇的に移り、それまでの山から都市への人の動きが逆になる。
 山から人の声や気配が弱くなる。人の生活の勢いに押されていたイノシシたちが、この頃ようやく勢力を伸ばし始める。明治の大乱獲から時間も経ち、そろそろ生息密度も高まってきていた。
 最初はこっそり田んぼや畑に侵入しただろう。初めて口にした作物は、うまかったに違いない。ここに、人が作った作物の味を覚えたイノシシが誕生する。おいしいうえ、一箇所で大量に実る餌場の発見。以後、イノシシたちの人間領域への侵出が始まる。一方でいよいよ山村の過疎化が加速していく。こうした背景を共通にして、イノシシ被害はほぼ同時的に各地で発生するようになる。


2011年5月11日
「森林異変 日本の林業に未來はあるか」田中淳夫、平凡社新書、2011
(159)
 バイオマスエネルギーが林業を活性化するのではなく、活性化した林業を下支えするのがバイオマスエネルギー利用なのである。
(172)
 現在各地で、大規模な伐採跡地という禿げ山が激増している。突然迎えた“国産材時代”に対応するように、急速な伐採が進んでいるからだ。 (176-177)
 これまでは「植林-育林-成林-伐採」という流れだった。この発想が通じたのは、禿げ山が全国に広がっていた明治から敗戦直後までだろう。今後は禿げ山(無林地)があるから造林するのではなく、すでに育った森林があることを前提にしなければならない。
 そこで必要ななのは、伐採と森づくりをセットにする考え方だ。伐採して木を出したい業者は、山主から「伐採-植林-育林」の作業を丸ごと請け負うのだ。植えた後に下草刈りや、状況によって苗の補植、そして除伐をするのである。つまり伐採から5〜10年間の長期契約を結ぶ。伐採する権利に、その後の植林・育林作業を抱き合わせるわけだ。その間の森林経営は、業者が代行する形になるだろう。ここで所有権と利用権の分離が行われる。そして、契約終了時には、ちゃんと優良な若い森林にして返却しなければならない。さもないとペナルティを科すことも考えるべきだ。
 この発想を具体化したのが「長期伐採権制度」である。実際にアメリカやカナダ、ニュージーランド、そして東南アジア各国に、長期伐採権制度は存在する。それを日本にも取り入れることを提唱したのは、故・堺正紘九州大学大学院教授だった。
 このことは、業者に過剰な負担を追わせることを意味しない。なぜなら、伐採後は跡地の整備(枝葉や端材の片づけ)を行うが、それはそのまま植林前の地拵えに通じる。しかも伐採時に入れた重機で行えば、コストも時間も圧縮できる。そして5〜10年間は、安定した仕事の確保につながるだろう。
(179-181)
 このようなことを考えていると、なんとすでに実行している業者がいた。佐賀県神埼市の株式会社佐藤木材である。
 佐藤木材は代々伐採搬出業を営んでいる。山主から立木を購入して、伐採・出荷するのが仕事だ。ところが三代目の佐藤英(ひでる)さんの代になって、伐採に加えて跡地に植林をし、その後5年間は下刈りすることも請け負い始めた。まさに長期伐採権制度と同じことをやっているのだ。しかも、苗代や下草刈りの人件費まで全部佐藤木材が支払っているという。それを30年前から行っている。
 なぜ、こんな負担の大きいことを始めたのか。
 英さんは、20代で父の仕事を継ぐ。それまで国有林は県有林を舞台にしてきたが、ちょうどその頃から国有林の伐採事業は激減してきた。そこで英さんは、民有林へとシフトさせることにした。ところが山主は、なじみのない業者においそれと山を任せてくれない。そこで持ち出した条件が、「伐採後の植林と5年間の下草刈り」なのである。この約束を律儀に守ることで信用を高め、仕事を任せてくれる山主は増えてきた。
 それは仕事を得るため、というだけではない。佐藤家では、常に「自分たちが生活できるのは、山主が何十年と木を育ててくれたおかげ」が口癖たったという。
 長女の和歌子さんによると、子どもの頃からよく山の現場に連れて行かれ、必ず山主の家に挨拶に寄る。そして長年育てた木を出荷する喜びを聞かされたという。伐採だけでなく、森づくりにも関わる覚悟があったのだ。
 しかし、負担は莫大だ。今でこそ造林補助金も使うが、最初の頃は全部会社の負担だったという。どのように経営を維持してきたのか。今風に、機械化を進めて作業を低コストに行い利益を上げるのか。
 だが聞くと、高性能林業機械はあまり導入していない。従業員ひとりあたり一日の木材生産量は、平均3立方メートル内外だという。決して多くない。いや、生産効率は悪い方といえるだろう(日吉町森林組合や八木木材は10〜20立方メートルのレベル)。それなのに、造林経費までどのように捻出するのか。
 英さんは、「丁寧に仕事をすること」としごく当然のことを答えた。伐採の仕方や造材(伐採した木の枝を落とし、一定の長さに切り揃えて丸太にすること)を丁寧にすることで価格がまるで違ってくるというのだ。
 「丸太の材積は木口の直径で計算します。木は徐々に細くなるから、どこで切るかによって太さは何センチも変わってくる。それが価格にも跳ね返ります」
 もちろん、伐採時に傷をつけないように注意するとか、注文に応じた長さや太さの材を出す・・・などの工夫も価格に反映される。ていねいに伐採・造材することで木材が高く売れれば、利益を出せる。それを造林や育林の費用に充てているというのである。
 私は、この話を聞いて愕然とした。これまで木材価格が安くなったと嘆く声ばかりを聞き、それに対処するために低コスト施業の推進が至上命題のように語られてきたが、その前に現場で木材を高く売れるように努力するという取り組みを忘れてきたのではないか。


2011年2月8日
「自然と日本人」宮本常一著作集43、未來社、2003
p.10-12
 日本人にとって自然とは
 日本人は自然を愛し、自然を大事にしたというけれど、それは日本でも上流社会に属する一部の、自然に対して責任を持たぬ人たちの甘えではなかったかと思う。自然の中に生きたものは自然と格闘しつつ第二次自然を作り上げていった。
 例えば、武蔵野は徳川吉宗の勧農政策によって畑にひらかれたが、それがかえってこの野を砂漠同様にしてしまい、干魃による飢饉が相次ぎ、多くの農民の離散があった。それを屋敷の周囲、畑の周囲に木を植え、畑の区切りごとに茶を植えて、風を防いで作物の成育を助け、玉川上水からいくつもの分水路を作って人の住み得るところにしたのであって、ただ単なる自然ではなく、人の手によって出現した自然である。
 海岸に続く松原なども、自然に生えた木はほとんどない。
 その初めは、潮風を防ぎ、砂を防ぐために苦労して植えたもので、そうしなければ、そこに住み、そこに生きられなかったのである。
 山に自然に木の生えているようなところでは、山の木はむしろ無造作に伐られて薪炭材とされた。
 歩いてみるとわかることだが、バスで通過するほどの山地で、樹齢100年を超える木の茂っているところはほとんどない。木は伐ってもまた茂るからというので、皆が平気で伐った。
 とくに昭和30(1955)年頃から林道の開発が進むと、奥地に残っていた原始林がパルプ用材として乱伐され、その生産額は建築用材を超えたことがある。その後へスギなどの植林されたものもあるが、大半は放置された。里人の目につかぬところであるから誰も気がつかなかった。
 木の育ちにくいところでは木を大切にするが、ほったらかしておいても育つようなところでは、いたって粗末にする。
 山に木が青々としているから大切にしているのだと思ってはいけない。自然愛護などと口にしつつ、空閑地や道ばたに進んで木を植えようとする人はほとんどいない。
 むしろ都会人たちは木を嫌っている。その証拠は、武蔵野の古い街道の両側に植えられたケヤキのほとんどが伐られてしまった。日陰になるとか、風が吹いて枝が折れると危険だからというようなことが理由で。
 それは決して武蔵野だけではない。街道の松並木なども大方姿を消した。交通の障害になるといって。
 最近、西日本は松食い虫の被害が甚だしいが、その防衛策のようなものがたてられているとは聞いていない。むしろ、松が枯れてしまったら伐って宅地造成ができると、密かに喜んでいるものもあるという。
 もともと、その地に住む者にとって風景のよいというのは重荷であった。そういうところはまっすぐな道も平坦な道も少なく、生活を立てるには、その山坂を上り下りして働かなければならなかった。だから風景のよいといわれるところに住む人はどこでも貧しかった。
 観光会社がホテルを作ったり遊び場を作ったりしても、地元の人には何の関わり合いもなく、むしろ都会人に薄汚い姿で働く姿を見られることを恥じた。最近になって民宿の発達したところでは、何かほっとしたものがあるようである。
 地元の人にとっては、そこにある自然が、そこに住む人に豊かな生活を立てさせてくれるものがよい自然なのである。しかもその自然から奪い続けなければ生きていけない人生があった。生活を立てるために造りだした第二次自然すらが、風景を楽しむようなものではなかった。  そういう中へ、昔の上流階層の自然観賞的な態度が、一般人の間に広がって、観光開発になってきた。昔はただ個人でこれを観賞したが、今は大勢で押しかける。
 そしてそれのできる身分になることを誰も望んでいる。すべて自然への甘えである。しかも今日では、自分たちの生活を守るために自然を利用することも少なくなった。口で自然を守れといってみてもどうしようもないことで、もう一度、日本人自体の自然に対する態度を問い直してみることからスタートしなければならない。

p.18
 ところが今から600年ほど前、中国に明(1368-1644)という国が建国せられます。この頃に明で二人挽きの長い帯状の鋸が発達します。向かい合って挽く鋸です。これは木を縦に挽くことができます。この鋸は一人挽きの大きな前挽き、あるいは板挽きという鋸が発達すると消えていくのですが、その鋸は日本で使われるようになったことから、木が多少曲がっていても、あるいは節がある木でもその鋸を使えば柱をとることもできる。縦に挽くのですから、板木を造ることができるようになった。われわれは松の木を、家を建てるときに用いることができるようになったわけです。古い建物、例えば法隆寺、あるいは薬師寺、そういう古い寺を見ますと、松は使われておりません。
 しかし、近世初期、中世の終わり頃から建築用材として松が使われるようになった。松はまっすぐ伸びる木というのは少ないわけです。そして節も多い。それを縦挽き鋸を使うことで柱にもし、板にもする。こういうことができることになって、新たに松は建築用材として使われるようになってきた。これは民家建築では大変大事なことなのです。

p.56-57
 明治末年から大正時代へかけての木材消費量は薪炭材六、建築土木用材四の割合であったといわれるが、さらにさかのぼれば、薪炭材消費の比率はさらに高かったであろう。それらが奥地できられて水流を利用して城下町に運ばれたのである。そしてそういうことが今日われわれが想像しているよりもはるかに強く、山村と町をつないでいたのである。関西線に乗って名古屋から奈良までの間の山間を通過すると、この間の事情がはっきりする。亀山から加太トンネルを抜けて柘植に出るまでの間の山々は、スギの植林が見事である。それはまだ伐期に達したものはあまり見かけないから、大正以後の植林ではないかと思われる。山地利用の熱が明治末年頃から起こってきたものであろう。ところが、伊賀盆地の西から木津谷峡谷にかけては、一面クヌギ山である。薪炭材として計画的に仕立てられていることは、木の大きさから知ることができる。この川は大河原から下は明治の終わり頃までは舟行の便があり、船を利用して大阪へ薪を積み出したところである。今は船は通わなくなっているが、依然として燃料の供給地になっている。同時に伊賀は、近世初期以来、大阪と深いつながりを持っていたのである。

p.85-86
 それで紀ノ川流域の木はどうしたかというと、これにはまたおもしろい問題がある。それは、室町時代の初めまでは、日本で桶を作るというのはみんな曲げ物だった。これはヒノキで曲げるというのが普通だった。ところがそのころに竹のタガが発明されて、それで輪をかけた。曲げ物だったら桶の大きさもしれたものですが、輪をかけるのであれば、二〇石ぐらいの桶でも平気で作れるようになってきた。それをもとにして、堺で酒が造られるようになった。これが室町時代の終わりです。
 そうすると、堺では"樽丸"材というのをものすごく必要とするようになった。そこで、紀ノ川流域のスギを割って樽丸にしたものを、馬の背や牛の背につけて、後には車を使いますが、そうして堺まで運ぶようになります。さらにそれが海を渡って西宮に、伊丹に飛び火するようになる。伊丹には鴻池という家があった、それが酒を造って、その酒を馬の背につけて江戸へ送ったところ、大変値がよく売れた。これが馬の背じゃなくて船だったらもっといいだろうということになって、それをやりますと、灘五郷というのが成立するようになる。そして年間六〇万石という酒が造られるようになった。
 六〇万石では酒樽がいったいどれほど必要なのかというと、一石で四斗樽二本半必要だということになる。六〇万石をかりに全部四斗樽に詰めるとすると、一五〇万本の酒樽がいるわけでしょう。それだけのものを今度はスギ材で、しかも真っ直ぐなのをとろうとすると、スギがいったいどれほどいるかということになりましょう。そうすると、立派な五十年もの六十年もののスギの茂っている山を年間三〇〇ヘクタール伐らなきゃスギは得られないことになる。そうすればあの奥で林業が盛んにならざるを得なくなる。それもスギ一筋でなければいけない。木目の通ったスギをつくらなけりゃいけない。枝打ちをしなけりゃならないのは当然のことです。
 そういうふうにして吉野林業というものが今日までずっと続いてきたわけです。ところが、それほど素性のいいスギならば建築用材にしたらもっといいじゃないかということになってくるわけですね。ですからあの山では、スギを植えられるだけ植えなければならないという林業が成り立ってきたわけです。
 そこで樽丸さえあれば酒が造れるかということになると、やはりそうだということです。酒造地というのは、スギの木のあるところに次第に発達していくようになる。ずっと後になるが、たとえば秋田の湯沢なんかそうでしょう。両関だとか爛漫だとかいう酒がたくさんできるのは、あの奥野スギがものを言ったわけですね。越前平野の酒も、山中にスギがたくさんあったから、また金沢の酒というのも白山麓のスギがものを言ったようです。だいたい町に酒造蔵が十軒内外できているところを見ると、その奥にそういうスギの産地があるということになるんですね。その産地の山の中には人がいて、林業に精出しながら暮らしを立てているんです。ところが、その暮らしの立て方にやはり問題がある。
 スギを伐った後にすぐスギ苗を植えると、草でやられてしまうんです。スギを切った後は、たいてい焼くんです。やはり焼畑が伴う。焼畑をやれば三年は草を刈らなくてすむ。下刈りは五年でいいわけだから、五回やるところを二回ですむことになるですから焼畑とスギの植林というのは今でも平行しているわけです。結局、吉野なんかでも、まだ内緒で山を焼いていスギを植える人があるようですが・・・。

p.122-123
肥松
 このようにしてマツの利用価値が高まってくると、マツの伐採も盛んになってくる。ところが、古いマツの根はそのまま土中におくと、松脂のために飴色になってくる。これは実によく燃えるので、掘りとって小さく割り、火皿にこれをのせて焚き夜の明かりにした。魚油や種油のない山間地方では明治初年まで松根を焚いたものであった。そこで松根を掘っておくことが盛んに行われた。それが山肌を荒らし、山崩れを引き起こすこともあって、「御建山御留山は勿論、其外山所に而もかくい堀取不相成事」という禁令が出されている。これは広島藩だけでなく、マツの多い地方の藩には一様に見られた禁令であった。この松根を肥松ともいったが、肥松は家の中で焚いたばかりでなく、瀬戸内の漁民たちが夜漁を行うときも篝焚きで焚いたものである。これを他の木と混ぜて焚くと、火勢が強かった。そこで山間の農民たちは商品として掘って売ることもあった。
 一方、広葉樹を伐って山がはげてくると、後にはマツが生えてくる。それもアカマツが多かった。いったんアカマツの山になると、後はずっとアカマツが続いていく。マツを伐るとき、種マツを何本か残しておくとその種が落ちて自然にまたマツが茂ってくる。近頃はあまり見かけなくなったが、松山の中に大きなマツが混じっているのは、たいてい種マツであった。

p.126-127
 以上のようにして、薪炭は供給よりも需要が大きく、山の禿げていくのは必至であった。しかも、マツを必要とするのはそれだけではなかった。内海には無数の漁船と帆船があった。今日のように船底に塗る塗料を持たない時代には、船材を虫に食われないために、船底を軽く焼いて虫を殺す必要があった。これを「船をたでる」といった。船をたでる燃料としてもっとも適していたのは、火力の調節を容易にすることのできる松葉であった。海岸地方の松山は、マツの木の下がいつもきれいに掃き清められていたが、それは落松葉を掃き取るためであった。海岸からやや離れた村ならば、この松葉をさでる(掃き集める)のは農家の女たちの余業で、それを船着き場へ売りに行ったのだが、広島湾岸や島などでは、漁村の者が山林に入ってさでてとるのが普通であった。漁民には松葉をさでたり、マツの枯れ枝を取ったり、マツの下に生えている木を刈り取ることが許されていた。そのかわり、農民は貝を掘ったり磯物を取ったりすることが許されていた。

p.128-129
 それにしても、山林の樹木の大半をマツに切り替えることによって、農村に農業以外の産業を発達させていくことになった。そして、マツのあることがそこに住む貧しい者の支えにもなった。海岸の漁民が山地に入って落ち葉を掻き、枯れ枝をとってもよかったように、小家・浮過などといわれる土地を持たない者も、腰林や野山に入って落ち葉・枯れ枝・下草などを取ることは許されていて、冬の間にそれを取り、一年間の薪にした。そのとき一つの条件がついていた。鋸を使って木の枝を伐ってはいけないということであった。土地によっては鎌も使ってはいけないといわれていたが、とにかくマツの枯れ枝ならばかなり大きいものでも折ることができる。これは山間の村々では共通した慣習だったようである。山は持たなくても薪を買わなくてすむということは、貧農の大きな救いであった。
 明治も終わり頃になると鑪(たたら)も衰え、鉄穴(かんな)掘りもなくなってきて奥地での炭焼きも少なくなり、山に木が増えてくるとマツの丸太は坑木として飛ぶように売れた。これはそれほど大きな丸太でなくてもよい。一方、同じ頃からセメントの生産が盛んになり、セメントを入れるための樽はマツ材で作られた。これは山中で製材して工場へ送ることになる。山中製材を可能にしたのは水車で、マツのよく茂る山の谷間の水の流れるところに水車を作る。そして、松山を買いうけては少しずつ伐って製材していくのである。一山を伐ってしまうのに十年を超えることは少なくなかった。すると、はじめに伐ったあたりにはもう10年生のマツがびっしり茂っている。
 アカマツの茂るところにはマツタケがよく出た。これは山主以外の者には取らせぬのが慣習で、マツタケの出る山には縄を張ったものである。



2010年11月9日
太陽活動低下期、日本は湿潤=江戸時代初期、老木の年輪解析―影響が判明・東大など
時事通信 11月9日(火)5時6分配信
 太陽の活動が低下して黒点がほとんど出現しなかった「マウンダー極小期」(1645〜1715年)に当たる江戸時代初期の日本は、周期的に雨が多い湿潤な気候になったことが奈良県内で倒れたスギ老木の年輪分析で明らかになった。グリーンランドでは寒冷になったことが氷床掘削調査で判明しており、太陽活動の変動が地球の気候に影響していたことが裏付けられた。東京大、名古屋大、名古屋工業大の研究チームが8日までに論文をまとめた。米科学アカデミー紀要電子版に発表する。
 東大大気海洋研究所の横山祐典准教授によると、太陽の日射と紫外線の量は11年周期(マウンダー極小期は14年周期)、磁場活動は22年周期(同28年周期)で変動する。気候への影響については、程度やメカニズムをめぐってさまざまな議論があり、はっきりしなかった。
 マウンダー極小期は、産業革命で二酸化炭素(CO2)排出量が増える前のため、太陽活動の影響を調べやすい。研究チームは、国宝五重塔で知られる奈良・室生寺で1998年、台風7号で倒れた樹齢392年のスギなどの年輪を分析した。
 年輪に含まれる炭素14の量から、太陽の磁場活動が低下した時期には、地球に飛来する宇宙線が強くなって空気のCO2に占める炭素14の量が増えたことが判明。一方、酸素16と酸素18の比率から、当時は雨が多かったことが分かった。

2010年9月8日
農業人口 75万人減少で260万人に 高齢化も進む
毎日新聞 9月7日(火)12時19分配信
 農林水産省が7日発表した10年の農林業センサス(速報値)によると、日本の農業就業人口は05年の前回調査より75万人減少し、260万人になった。5年間の減少率は22.4%で、現在の調査方法になった85年以降では過去最大。また、過去1年以上作付けがなく、今後も数年は耕作する見通しのない耕作放棄地が前回より1万ヘクタール(2.6%)増えて、初めて40万ヘクタールに達した。
 農業就業人口は90年には482万人だったが、この20年間でほぼ半減したことになる。高齢で農業を続けられなくなった人が増加し、新たに就農する人の数を上回っていることが主因。就業人口の平均年齢は65.8歳と5年間で2.6歳上昇し、初めて65歳を超えた。
 ただ、引退する農家が農地を他の農家や農業法人に貸す動きも続いており、法人を含む「経営体」の数で見ると、経営規模が5ヘクタール未満の層が減少し、それ以上の層は増えた。経営体の平均経営面積は5年前より0.3ヘクタール増え2.2ヘクタールになった。
 農業経営の多角化への取り組み状況では、農産物の加工に取り組む農業経営体が4割以上増えて3万4000となり、大幅増を示した。
 調査結果について山田正彦農相は7日、閣議後会見で「農業者戸別所得補償の本格実施を急がなければならない」と述べ、農家に対する所得補償により農業基盤を強化する考えを改めて示した。【行友弥】

2010年9月7日
神木 樹齢400年の杉の巨木倒れる 宮城・鹿島神社境内
毎日新聞 9月7日(火)11時35分配信
 6日午後7時半ごろ、宮城県加美町の鹿島神社境内で、樹齢400年とされる杉の巨木が倒れて、近くの木造の門が全壊しているのを千葉国彦神主(58)が見つけた。仙台管区気象台によると、県内では同日夕から強風が吹き荒れ全域に竜巻注意情報が出ており、突風により倒れたとみられる。
 倒れた杉は高さ約30メートル、幹の直径は約1.5メートル。衝撃で門の奥にあった拝殿の木造トタンぶき屋根の一部も損壊した。境内では直径30センチ近いイチョウの大枝も数本折れ、神社に隣接する土蔵のトタン屋根も飛ばされたという。
 鹿島神社は1200年前の創建とされ、坂上田村麻呂の東征伝説とつながる。倒れた杉は加美町の天然記念物に指定され「神木」とあがめられていた。千葉神主は「雷と雨風が収まってから様子を見に行ったところ、ご神木が倒れていた。こんなのは初めて」と驚いていた。
 町の隣の大崎市古川では6日午後6時34分に最大瞬間風速36.1メートルを観測。町内では民家の屋根が飛ばされたり、窓ガラスが割れるなどの被害が約40件出た。また、県内では8956戸が一時停電した。【小原博人、須藤唯哉、比嘉洋】

2010年08月29日
猛暑で世界遺産がピンチ ナラ枯れ被害全国で拡大 産経新聞
 猛暑が森に思わぬ影響を与えている。ナラやカシ類といった広葉樹が集団枯死する「ナラ枯れ」の被害が全国的に拡大。世界自然遺産に指定された鹿児島・屋久島の森にも広がりだしたほか、東京・八丈島でも今夏、初めて被害が確認された。森の伐採が進まないため被害が広がっていたが、記録的猛暑が拍車をかけたとみられる。(大矢博之)
 赤茶色に染まった部分が点々と広がる屋久島の山。紅葉しているかのように見えるが、これが「ナラ枯れ」だ。
 屋久島森林管理署によると、今年6月ごろから被害が発生。世界遺産区域の西部林道周辺などで、ブナ科のマテバシイやスダジイなどの葉が枯れ、茶褐色になった樹木が点在している。
 屋久島では昭和30年と平成16、17年に被害の記録があるが、「今年の被害は目立っている」(同署)。同署は現在、屋久島の国有林の実態調査を進めており、9月に専門家を集めて対策を検討するという。
 林野庁によると、10年度の被害は8府県で278ヘクタールだったが、20年度には20府県で1445ヘクタールに拡大。21年度は23府県で2千ヘクタールを超える見通しだ。新潟県、山形県、富山県といった日本海側で被害が大きい。
 東京・八丈島でも7月に初めて被害が発生。八丈町役場などによると、森の木の葉が赤くなって枯れ、幹に穴が開き、木くずが落ちているという。
 京都府でも、夏の伝統行事「五山送り火」が行われる東山などで被害が拡大。巨大な「大」の火文字で知られる如意ケ嶽などで、山のあちこちが紅葉のように色づいているが、これもナラ枯れが原因だ。
 ナラ枯れは、カシノナガキクイムシ(カシナガ)という体長約5ミリの害虫が運ぶ「ナラ菌」が原因で発生する樹木の伝染病。カシナガが夏に繁殖のため幹に穴を開けて入り込むことで、樹木が菌に感染する。内部で菌が広がった樹木は水分を運ぶ管が詰まり、枯れてしまう。
 全国でナラ枯れ被害が拡大している原因について、独立行政法人森林総合研究所関西支所の衣浦(きぬうら)晴生・生物被害研究グループ長は、「木が伐採されなくなったことで太く成長し、虫が繁殖しやすい状況ができた」と説明する。
 さらに今年は記録的暑さが続き、葉から蒸散する水分が増え、木が弱って枯れやすくなる状況が生まれた。衣浦氏は「猛暑が拍車をかけ、ナラ枯れの症状が出やすくなっている」と指摘する。  被害を防ぐ手だてとしては、感染した木の伐採や、ビニールシートを巻くなどの方法が考えられるが、「現在、実際に効果が挙がる対策はない」(林野庁)という。
 林野庁は「被害を防ぐため、太くなった木を切って森の若返りを進めようにもまきや炭などの需要がない。山頂部などの木をすべて切るのも難しい。防除法もまだ開発しきれていない」と頭を悩ませている。

2010/08/05
「弥生の里山」出土
  朝日新聞朝刊
奈良県御所市bの中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)の洪水で埋まった林と水田の遺跡が見つかった。県立橿原考古学研究所が4日、発表した。埋没凛と水田跡が同時に出土するのは珍しいといい、橿原考古学研究所は「弥生の里山の風景が再現できる貴重な発見だ」としている。 約3千平方メートルからヤマグワやツバキ、クリ、トチノキなど22種類・計約200本の樹木(直径10〜85センチ)が出土した。焼けたエノキの切り株(直径85センチ、高さ80センチ)もあり、石器と火を使って切り倒した跡とみられる。
一方、水田跡は約1700平方メートル、約80枚分。過去の調査分と合わせ、橿原考古学研究所は一帯に計320枚分以上の広大な水田が広がっていたとみている。現地説明会は7日午前10時〜正午に開かれる。小雨決行。問い合わせは橿原考古学研究所(0744-24-1101)へ。

2010年5月14日
ナラ枯れは江戸時代にも発生していた
井田秀行・高橋勸、日林誌92, 115-119, 2010
長野県飯山市では、1750年にもナラ枯れのような被害が発生していた。古文書に「神社の社叢において、多数のナラ樹の葉が夏頃から変色しはじめ、秋にはほとんどが萎凋枯死した。虫は樹幹に加害しており駆除の手段がない」と記されていた。
カシノナガキクイムシは江戸時代以前から我が国に生息しており、ブナ科樹木萎凋病は社叢のような大径木が多い立地で発生を繰り返していた可能性が高い。 五束神社が所蔵する「御社向日記」を読んだ。
1750年に発生したナラ枯れは、現在のように顕在化することなく2〜3年程度で収束した可能性が高い。→ 神社社叢の他の土地には大径のコナラが存在しなかった。
低温期であるこの時期にナラ枯れが発生していたということは、現在のナラ枯れが温暖化の生ではないし、海外起源であるという可能性も低い。
古文書で記述している場所は現在の飯山市大字豊田であり、この周辺では現在もナラガレが発生している。
引用文献
北川浩之・松本英二(1998) 屋久杉年輪の炭素同位対比変動から推定される過去2000年間の気候変動(過去2000年間の気候変動とその要因).気象研究ノート191, 1-13
小林正秀・上田明良(2003) カシノナガキクイムシによるマスアタックの観察とその再現.応動昆47, 53-60
小林正秀・上田明良(2005) カシノナガキクイムシとその共生菌が関与するブナ科樹木の萎凋枯死:被害発生要因の解明を目指して.日林誌87, 435-450
西垣眞太朗・井上牧雄・西村徳義(1998) 鳥取県におけるナラ類の集団枯損及びカシノナガキクイムシの穿入木の材含水率.森林応用研究7, 117-120
太田貞明(1993) 樹木年輪の分析からみた日本の小氷期.地学雑誌102, 107-118


2010年2月27日
奈良で縄文時代のクリ林確認
食用に栽培か
京都新聞朝刊
 奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡で、縄文時代晩期中ごろ(約2800年前)のクリの切り株が25本確認され、市教育委員会が26日発表した。約80メートル四方の範囲に集中しており、食用などのために栽培していたとみられる。
 市教委は「切り株がこれほどまとまって出土したのは初めて。狩猟採取が中心といわれる縄文時代の食料獲得方法を見直すきっかけになる」としている。
 切り株は大半が直径50センチ前後で、樹高は20〜30メートルだったと推定。クリは腐りにくく丈夫なため、食用のほか建築部材としても多く利用されたという。
 市教委が科学的な分析で樹木の種類を特定。クリ林の周辺には、オニグルミやムクノキの切り株も確認された。
 現場は既に埋め戻されており、発掘成果は27日から橿原市千塚資料館で紹介される。(共同通信)

2010年2月2日
木質バイオマスで発電
河北新報のWEB
 山形県村山市は1日、市庁舎など市内11の公共施設の電力源を、市内の果樹園の剪定(せんてい)枝や森林の間伐材、廃材などを原料とする木質バイオマスに切り替えた。同市富並の発電事業所「やまがたグリーンパワー」との連携によって実現させた。
 市によると、こうした取り組みは全国初だという。市庁舎のほかに電力源を切り替える10施設は、市民会館と市民体育館、7小中学校、温泉施設「クアハウス碁点」で、年間1280トンのCO2削減と50〜60万円の経費節減効果を見込んでいる。
 2007年6月に稼働した「やまがたグリーンパワー」社の発電は、北村山地方で回収、粉砕加工した木質チップをガス炉で加熱し、その際に発生するガスで発電機を動かすシステム。同社は昨夏、電力を小売りできる「特定規模電気事業者」に認定された。

2010年1月4日
四万十式林道   朝日新聞
お手軽エコ低コスト。約2000円/m。 道幅2〜3m。 従来作業道の1/5の単価。
設置現場に生える植物の根や葉を含む表土と、表土の下にある土とを交互に積み重ねて強度を保つのが特徴。重機で踏み固めれば、表土にある植物の繊維質と土が絡み合って崩れにくくなる。路肩は木の根株も埋め込み強化する。
滋賀県は2008年度に取り入れ、県北東部の17箇所、約9kmの区間で四万十式など低コストの作業道を造った。福島、長野、奈良、熊本などの森林組合も2009年度に設置した。 朝刊の1面トップに掲載されていたが、この扱いがふさわしいものであったのかどうか、疑問が残る。

古い林業
鹿島神宮の植林の記録
いまから千百年ほど前の貞観八年(866)に、常陸国(茨城県)の鹿島神宮で、スギ四万本、クリ五千七百本を植えたというのもこのひとつの例です。これは、おそらくまとまった数の木を植林した最初の記録でしょう。
「鹿島神宮は、二十年に一度の修理をするが、そのときに使う用材の量は五万本ぐらいいる。今までは同じ国内の那珂郡の山々からとってきたが、遠くて道もけわしく、運ぶのがたいへんである。だから、神社の近くのあき地に、スギとクリを植える」というようなことが『日本三代実録』に書いてあります。
(筒井迪夫、木と森の文化史、朝日新聞社、66、1985より)